カテゴリー
文花【あやはな】(文学)

契沖(けいちゅう)

【キーワード】
古言(ふること)学びの祖(おや)

[ad#a-auto-1]
[ad#a-336-1]

 
●血筋
祖父は加藤清正の絶大な信頼を得ていた家臣であった。
しかし、父が浪人となったため、8人の子供は、出家か養子として家を離れた。

●1640年
摂津(大阪府尼崎市)に生まれる。俗性は下川氏。
幼い時から記憶力に優れ、5歳の時にはすでに、百人一首を諳(そら)んじていた。

●1650年(11才)
大阪今里の妙法寺に入り、出家し真言宗の僧侶となる。
妙法寺では、丯定(かいじょう)を師匠として仏教を学ぶ。
この頃、弘法大師を心の師と仰(あお)いでいた。

●1653年(13才)
高野山に入り、10年間の仏道修行をする。
仏典の研究を専(もっぱ)ら行っていた。
僧の快賢より、仏学、神道、和学(日本古典文学)を学んだ。このことが、契沖を僧侶でありながら国学の道へ進ませた大きな要因となった。
高野山で阿闍梨の位を得る。

●1662年(23才)
高野山を下(お)りて、大阪生玉の曼陀羅院の住職となる。
寺の実務を担当。寺務をこなしながら、古典研究に励む。
この頃に、下河辺長流(しもこうべ – ちょうりゅう)を知り、学問の刺激を受ける。
俗務を嫌い畿内を遍歴する。

[ad#a-auto-1]
[ad#a-336-1]

 
●1666年(27才)
高野山に再び入り修行する。

●1669年(30才)
高野山を下り、高野山と縁のある辻森家(和泉国和泉郡久井村)に5年間寄宿する。
同家所蔵の仏典や漢籍に親しむ。この時の読書が、その後の研究の礎(いしずえ)となった。

●1674年(35才)
伏屋家(和泉国和泉郡万町(まんちょう)村)に寄宿する。
同家所蔵の仏典や漢籍を熟読し、梵語(サンスクリット)語の研究にも励む。

●1678年(39才)
妙法寺の住職となる。

●1681年(42才)
万葉代匠記初稿本に着手する。

●1686年(47才)
万葉代匠記初稿本を書き上げる。

●1690年(51才)
円珠庵に隠棲する。
万葉代匠記精撰本を書き上げる。

●1692年(53才)
百人一首改観抄を書き上げる。

●1693年(54才)
和字正濫従鈔(わじしょうらんしょう)を書き上げる。

●1696年(57才)
万葉集の講義を円珠庵で行う。

●1701年(62才)
円珠庵にて亡くなる。

[ad#a-auto-1]
[ad#a-336-1]

 

《参考文献等》
・久松潜一 (1989)『契沖』吉川弘文館
・小林秀雄 (1992)『本居宣長』新潮社
・『同行二人(第2部)』

(アクセス日:2017/5/23)

 
↓応援クリック、いつもありがとうございます。
にほんブログ村 その他日記ブログへ